ポルンガの復活から数日ばかり経った夜――

 

ブルマはヤムチャとの再会を喜び、それまで久しく引き離されていた空白を埋めるように、恋人としての二人きりの時間を大切に過ごしていた

 

「その痕(あと)……早く消えるといいな」

 

化粧台の鏡面越し、ヤムチャは未だ薄く赤痣(あざ)の残るブルマの喉元に目を留めた


「ったく、サイテーなヤツよね。か弱いレディにこんな仕打ちをするなんて」


長い髪をヘアブラシで梳かしながら、バスローブ姿のブルマは先日のとある“災難”を思い出し、不愉快そうに眉頭を寄せた


「あの野郎……今度ノコノコと現れやがったら、絶対にブチのめしてやるっ!」


ヤムチャは拳を握り締め、自らの不在の間に乱暴を働いたという例の不届き者に必ずや鉄槌を下さんと息巻いている


「気持ちは嬉しいけど……そういうの、やめといたほうがいいんじゃない?」

 

「なっ、何だよその言い方!お、俺だって、今ままでずっと界王様のところで厳しい修行をしてきたんだぞ!も、もう、あの時の様には」

 

「そうじゃなくて」


髪を梳かす手を止め、ブルマは背後に佇むヤムチャを振り返って言葉を遮る


「だって、折角こうして生き返る事が出来たんだもの……あんなヤツの事なんか放っといてさ、目の前にある幸せを楽しんだ方がいいと、アタシは思うのよね」

 

「……」

 

「ね、そうじゃない?」

 

「……」

 

「……」

 

「……それも、そうだな」


その魅力的な潤んだ瞳でまっすぐに見つめられ、フッと肩の力が抜けたヤムチャは、敵わないといった苦笑いを浮かべてブルマを優しく見つめ返した


「フフン……それなら、遠慮なく楽しませて戴こうかなっ」

 

「ち、ちょっと!まだ髪が……ヤダ、やめてよ、ウフフッ」


こんな他愛のないやり取りが出来る事をどれほど待ち望んでいた事か。ブルマは今のこの瞬間―― 愛する恋人との幸福なひと時を心から満喫していた

 


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草木も生えぬ荒野の果て―― 冷たく吹き下ろす風の音だけが、物言わぬ岩々の合間を縫うように駆け抜けていく

 

その中でも一際高く突き出した岩山の天辺に、月の明かりを浴びて静かに立ち尽くす男がいた

 

今宵は満月。気を鎮めようとすればするほど、むしろ体中の感覚は鮮明なまでに研ぎ澄まされていく。尻尾は失っても、その民族の先天的な特性は細胞の一つ一つに刻み込まれているの


(こんな事ではダメだっ!!)


遮る雲もなく強烈に降り注ぐ月光の中、ベジータは瞑想に集中出来ない自分自身に怒りを覚えていた

 

“怒り”―― カカロットのガキの証言を考察するに、伝説のスーパーサイヤ人の高みへと到達するには、ある種の激しい怒りによって爆発的なパワーを呼び起こさねばならないようだ

 

怒りによるパワーの爆発だけなら自分にだって可能である。しかし、彼のその明晰な頭脳を以(もっ)てしても、別次元への壁を超えるキッカケをどう掴んでいくのがベストなのか、未だ確信の持てる正解を導き出す事が出来ないままでいた

 

カカロットの帰還を待ちながら自力で修行を開始してから早数か月。飛ばし子の最下級戦士ごときですら成し遂げたというのに、なぜ最も秀でた血族である自分が遅れを取り続けなけばならないのか


(俺は……俺はサイヤ人の王子なんだ!!誇り高き戦闘民族の最エリートなんだぞ!!なのに……何故だっ?!)


「ッ……ウオオォォォーーーーーッッッ!!!」


ベジータは悔しさに表情を歪ませると、天に向かって雄叫びを上げながら眩(まばゆ)い衝撃波を発散させ、自身の周囲に立ち並ぶ岩山という岩山を吹っ飛ばした

 

激しく放出されていた衝撃波の光が収束すると、付近一帯に聳(そび)えていたはずの石柱群は、それらの崩壊によって発生した土埃の下で無残な瓦礫へと成り果てていた

 

息を切らせたベジータは破片と化した岩々の残骸の上にゆるゆると降りて足を付き、力無くガックリと地面に膝を落とす。ストレスを解消したつもりだったが、どういうわけか、心身の感覚は益々不調を来(きた)しているように思える

 

地球に拠点を置いてからというものの、何度か満月に遭遇する度に多少の変化は感じていたが、今夜ほど明確に不具合を感じるような症状に陥った記憶はない


「チッ……!」


彼方より悠然と我が身を照らしつける満月を恨めしく睨みつけるが、両の目からダイレクトに吸収される強烈なプルーツ波によってグラリと眩暈を起こし、再びたまらず首(こうべ)を垂れ、その症状に耐えようと歯を食いしばる

 

額に滲んだ冷や汗が、鼻筋を伝って地面に滴り落ちる


(一体どうなってやがるんだ……こ、こんな些細な問題すら克服できなくては、スーパーサイヤ人に成る事など、到底不可能ではないか……!!クソッタレ!!!)

 


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ブラインドの隙間から差し込む僅かな月の明かりを、ブルマはベッドの上で、ヤムチャの腕に抱かれたままぼうっと眺めていた。安らかに寝息を立てている恋人とは対照的に、今夜の彼女は中々思うように寝付けないでいる

 

恋人を起こさぬようにゆっくりとベッドから抜け出し、脱ぎ捨てていたバスローブに腕を通しながら、窓辺に近付いて音を立てないようにブラインドを引き上げる

 

雲一つない満点の夜空にぽっかりと浮かぶ満月は、普段よりも殊(こと)の外大きく、人工的な光を放つ都の夜景にも劣らぬ存在感を以て明るく輝いているように見えた

 

星々のバックに広がる群青の空色は広大な宇宙の色。そして、例の異星人が頑なに身に纏い続けているボロボロのアンダースーツとよく似た色である


(アイツ……今頃どこで何やってんのかしら)


ブルマはふと、未だ消えきらぬ痕の残る自身の喉元に指を這わせた。その上から真新しく付けられた別の赤い痕は、愛する恋人から受けた慈しみの印である

 

あの傍若無人を地で行く異星人の事は勿論大嫌いであるが、それでも尚、ブルマは何故かふとした時にベジータの振る舞いについて想いを馳せてしまうのであった

 

孫くんはサイヤ人であるにも関わらず朗らかで気の良い青年である。ピッコロも元は大魔王の分身として地球を支配せんと目論む存在であったが、サイヤ人やフリーザとの闘いを経て、今では悟飯くんの良き師匠という立場に落ち着いている

 

もう随分と昔の話ではあるが、天津飯や餃子、そしてここに居るヤムチャですら、出会った頃は殺し屋や盗賊などという悪の肩書を持つ人間であったのだ

 

穏やかなメンタルを保てるような機会が得られぬまま生きてきただけであって、もし何かのキッカケさえあれば、彼もいつか少しは心を開いてくれるのではないか……

 

元々悪の側であった何人もの人間が変わっていく姿を目の当たりにしているブルマにとっては、あのベジータですらも完全に例外であるとは思えなかったのだ

 


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未だ煌々と照り続ける満月の光をその背に浴びながら、ベジータは補給地であるカプセルコーポレーションへ戻ろうと懸命に飛び続けていた

 

一部厄介な懸案はあるものの、良質な食料があり、宛がわれた部屋があり、ついでに熱いシャワーもありと、崩れてしまった体勢を整え直すのに最も適した環境といえば、やはりあの“家”しかないのである

 

彼方に見え始めた西の都のネオンを目指して一直線に向かっているつもりだが、その飛行はいまいち安定しない。眩暈の中で無意識に右へ左へと身体が揺れ、度々ガクリと高度を落としては、また辛うじて持ち直すという繰り返しである

 

本来なら直接目に焼き付ける事でのみ作用するはずの今宵の満月の波動は、地上からの僅かな照り返しですらも、じわじわとベジータのバランスを狂わせていくのに充分過ぎるほどの効力を発揮していた


(クソッ……吐き気までしてきやがった……)


時折込み上げてくる嘔気を抑えながら、やっとの思いで市街上空へと到達する。中心地に鎮座する例の巨大なドームはもうそこまで見えているが、長時間飛び続けたベジータの不調もまた限界を迎えようとしていた

 

夜更けともなると家長は既に床に就いているが、あの鬱陶しいオンナは何故か時々起きているらしく、以前廊下の角でバッタリ出くわした事がある。ましてこんな無様な姿を見られては、いつも以上に煩わしい事になるのは容易に想像がつく

 

オンナに見つからぬ事を祈りながら、カプセルコーポレーションの敷地内へと近づいていく……既に習慣付いた様子で自然とテラスの方へ回り込もうとするが、ふと、間近の部屋のブラインドが動いたのを目の端に捉えたベジータは反射的に身を翻し、敷地に立つヤシの木の葉陰へとその身を隠した


―― 因みに、彼はいつも鍵の掛かっていないテラス戸から屋内へと侵入しているのだが、それは初めて深夜に侵入した際に窓を破壊し、セキュリティアラームを鳴らす騒動を起こしてしまって以降、ブリーフ夫妻の計らいでいつでも出入りできるようにと、敢えて毎晩鍵を掛けずにいてくれているおかげなのである――


咄嗟に起こした機敏な動作の反動で猛烈な倦怠感に襲われ、もはや木の幹を支えに浮遊しているのがやっとである。そんな中でも辛うじて、ベジータはブラインドを開けようとしている人物を確認しようと葉陰の隙間からその目を凝らした

 

やはりあのオンナである。ゆっくりと上がるブラインドの向こうから姿を現したブルマは、バスローブの胸元をはだけた恰好のまま、その髪に、その白い肌に満月の光を淡く湛えながら、どこか物憂げな眼差しで西の都の夜景を一人見つめている

 

真っ当な美的感覚を持つ者なら誰しもがその艶姿に目を奪われる事だろう。しかしながら、心身共に絶不調の真っ只中にあるベジータには、そういった点に着目する余裕は微塵もなかっ

 

尤(もっと)も、例え本調子であっても、戦闘一筋の彼が地球の女の美しさなどに人並みに関心を示す可能性があるとは思えないのだが……

 

彼はただ、浮遊する為のチカラが尽きぬうちに、一刻も早くテラスへと辿り着くために、あのオンナが窓から遠ざかる瞬間を見張っているだけに過ぎない

 

まさか目と鼻の先に異星人が息を潜めている事など、常人のブルマが気付くはずもない。そのまま数分ほど物思いに耽った後に、ブルマはようやく徐(おもむろ)に窓から身を引いた

 

同時に、ベジータもこの機を逃さんと最後の勢いをつけてヤシの葉陰から飛び出す。が、しかし――

 

その一瞬、たった一瞬のうちに横目に受けてしまった満月の光によって再び強烈な眩暈を起こし、三半規管に異常を来して視界がグルグルと大きく回り始める


「ッ……!!」


そのまま空中で制御不能に陥ると、南無三、まるで失敗した紙飛行機が落下するように急速に進行方向を変え、受け身もままならずドスリと鈍い音を立ててドームの外壁に身体をまともに打ち付けた

 

その強い衝撃と共に、ベジータの意識はついにそこで途切れたのだった

 


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(でも、ま、アイツが心を入れ替えるなんて、そうそうあるもんじゃ無いわね)


確かに悪人が変化していく事例があるとは言え、あれほど頑なに心を閉ざした男が態度を改める程のキッカケともなれば、並大抵の出来事では済まされないだろう

 

放っておけばいい―― そう言ったのは、他でもないアタシなのに。直接暴力を振るわれれておきながら、いつの間にかこうして彼の事で先の見えない考え事をしてしまっている自分に気づき、ブルマは自嘲するかのように小さく肩をすくめた

 

ベッドに目を向けると、ヤムチャはシーツを被り相変わらずスヤスヤと眠っている。明日は久々に街へ出てデートをする約束なのだ。化粧ノリの悪い寝不足顔で恋人の隣を歩きたくはない。やはり、自分もそろそろ寝なければ……

 

そう思い直し、ブルマはベッドへ戻ろうと踵を返した。しかしシーツを捲ろうととした時、上階の外壁に何かがぶつかってきたような衝撃音を聞き、ブルマは何事かと再び窓ガラスに近寄って上のほうを覗き込んだ……すると


「キャアッ?!!」


見上げた瞬間、突然降ってきた人型の物体が窓をかすめながら目前を通り過ぎ、窓に張り付いていたブルマは思わず悲鳴を上げて仰け反った。眠っているヤムチャの肩がピクリと動く

 

ショックで尻もちをついてしまったが、何が起こったのか確認しようと窓ガラスを開き、身を乗り出して地面に落下したであろうモノの正体を見定める


「ちょっ……う、嘘?!あ、アイツ……何で?!」


窓下に倒れ伏しているのは確かにヒトだった。特徴的な逆立つ黒髪に、ボロボロの戦闘服……それは紛れもなくあの暴虐な異星人、ベジータその人であった

 

ベジータは地面に俯せた状態のまま、全く動く気配がない。明らかに気絶しているのだ

 

つい先程までの物思いの対象が全く予想だにしない形で姿を現し、信じられないといった面持ちでブルマは酷く狼狽する


「……う~ん……どうした……?」

 

「ごめん、アタシ、ちょっと出てくる!」

 

屈強なハズの戦士があのような姿を晒しているというのだから、これは流石にただ事ではない

 

起こされたヤムチャが目を擦りながら上半身を起こし始めるのと同時に、ブルマはバスローブの衿(えり)を直しながらバタバタと慌てて部屋を飛び出していった

 

「……???」

 

一人残されたヤムチャは何が起こったのか分からず、遠ざかる駆け足の音を聞きながら、ベッドの上でただ茫然と瞬きを繰り返すのみであった――

 


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つづく

 

2017年09月18日